人の才能には大小の差があるので,無力の者に大任を求めても不可能であることを表わしています。
ある男が,庚桑子に教えを受けていたが,悟ることが出来なかった。そこで庚桑子に,なぜ悟ることが出来ないのか聞いたところ,庚桑子は次のように答えた。
「越の鶏は小型なので鵠(白鳥)の卵を孵すことができない。しかし魯の鶏は大きいので鵠の卵を孵ることが出来る。同じ鶏であるから,その性質に違いがあるはずがなく,その才に大小の差があるからだ。私は才が小さく,おまえを感化させることができないから,私の師である老子の教えを受けるがよい。」
その故事から,この言葉が生まれました。